朝顔の女
母が伯父から朝顔の苗を貰ってきた。
とうに蝉が鳴き始めていた頃のことであったので、植えるには遅すぎるのではないかと訝ったのだけれども、連日「だるい、だるい」と繰り返しながら和室へ横になっていた母が妙にやる気を出して土やら鉢やらを買い揃えているのを見ていたら、何も言う気がなくなった。
二つの鉢へ植えられた朝顔は、柱もきちんと立ててもらって、すくすくと成長した。人間の方はすっかり猛暑にやられてしまったが、幸いにも、根腐れをおこすことも枯れる様子もない。葉は青々と茂り、蔓は奔放な曲線を描きながらするすると 支柱にそって天を目指している。
だが、
「困ったわねぇ。葉っぱばかりで、花がつかないじゃないの」
あるとき母が嘆くのにつられて鉢を見てみれば、なるほど、確かに蔓の威勢は良いが花が見当たらない。やはり植え替えの時期が悪かったのだろうとは思ったが、口には出さずにおいた。
さて、その晩。
あまりの暑さに布団を蹴って寝ていた私は、なにやら手首のあたりをさわさわとやられるくすぐったさに目を覚ました。もう片方の手で掻いて誤魔化していると、「もし、」と蚊の鳴くような声がする。本当に蚊であれば悪態のひとつも吐きつつ線香でも焚くところだが、それが若い女人の声であったので私はどきりとして起き上がった。
「もうし、おまえさま、このような時分に相すみませぬ」
夜明け前のもっとも昏い闇の中、枕元へ若い娘が慎ましく座っている。頬はぼうやりと浮かびあがるように白く、柳のようなすっとした眉のしたで潤みをもった眸が凝っと此方を見ている。若草色に染めた絽の着物を肌の上へ直接着ているらしく、うすものの下に瑞々しい柔肌が透けて見えるのが、 なんとも目のやり場に困る風情だった。
「……誰だ、おぬしは」
様々の動揺を押さえ込んでようよう訊くと、はい、と娘は小さく頭を下げて話し始めた。
「おまえさまの御母堂に手厚く世話して頂いた我が身ですけれど、未だその御恩に報いることも出来ず、ただ日陰を作るばかりの日々にございます。情けのうて仕方がございませぬが、このままでは徒に夏を過ごす羽目になりそうでありますから、厚かましいのは重々承知で御座いますけれど、おまえさまにひとつお願いを申し上げたく……」
はてさて、一体どういうわけだろう。これは夢か現か。我が母は、なんぞ怪我をした動物でも助けたのか、それともいじめられる亀を助けでもしたのか。いずれにせよ、この女、人間とは思われない。下手をうってなんぞ面倒なことになってはいけないので、私はせいぜい鷹揚に見えるように大きく頷いた。
「なんだね、その願いとやらを言ってみ給え」
「はい。わたくしに清酒を一口、お恵みくださいませ。さすれば、御母堂の期待に報いることが出来ようと存じまする」
思ったよりも他愛のない願いであったので、私はほっとして頷いた。
「よかろう、しばし待ち給え」
ちょうど夏祭りで訪れた神社から頂いた神酒があったので封を空け、切子の猪口へ注いで出してやる。女の白い指先が、慎ましく猪口を受け取った。なにやら神妙な心持になった私の目の前で、色の薄い唇がするすると清酒を飲み干す。
「ほう」
猪口を空にした女は、なんとも心地よさそうな、うっとりとした溜息を漏らした。
もっと飲むか、と言いかけて、私は言葉に詰まる。
陶然と目を細める女の丸い頬、濡れた唇、それに猪口を持つ指先が、みるみるうちに赤らみ、生き生きと色づく。艶が増し、潤い、幸福そうに女は微笑う。
「嗚呼」
思わずといった風情で漏れたその呟きにすら、彩が感じられるようだった。
「ほんに、ありがとうございます。おかげさまで、朝には御母堂の期待に添うことが出来そうでございます」
猪口を置き、しずしずと頭を下げる、その肩へ流れた翠の黒髪が畳へ触れるか否かのところで、女の姿は消え、私の意識は暗転した。
「お前、いつまで寝ているの。こそこそと寝酒などして……」
まったく、と文句を垂れる母の声で目が覚めた。
はっとして見回すと、切子の猪口と清酒の瓶とがすぐ脇に置かれている。酒癖の悪い父のせいで酒に良い思いのない母の説教はいつもであれば長々と続くのだが、今朝は随分と機嫌がいいらしく、すぐに声の調子が切り替わった。
「さっさと布団をあげて、外へ出てみなさいな。早くしないと萎んでしまうわ」
遠ざかっていく声を聞きながら、ぼりぼりと頭を掻き、欠伸を一つ噛み殺す。言われたとおりに布団をあげ、着替えもそこそこに縁側へ出る。
朝露にかがやく青い葉に囲まれ、一輪の赤い朝顔が誇らしげに円い花を咲かせていた。
(2011.08)
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