ホテルハドソン殺人事件8
ツイッター交流企画『ホテルハドソン殺人事件』参加作品です。
アドラ・アルムニアが私のキャラで、話によりNPC或いは他の参加者様のキャラクターをお借りしています。セリフの一部は公式による提供、または他の参加者様とのキャラロールでのやりとりでいただいたものになります。
ホテルハドソン殺人事件 序章
結局、アドラは日が暮れはじめてもなおホテルハドソンに留まっていた。もう一泊しようとしていたわけではない。
「昼間はなにやら騒ぎがあったようだが、良いレストランじゃあないか」
夜の庭園を臨む窓硝子に、室内の照明が火花のように映り込んでいる。ホテルハドソンの一階にあるレストランは、ティータイムの騒動など忘れた顔をしていた。
アドラの向かいで、ワイングラスを揺らしながら若い男が満足げに笑う。白い絹のジャボットはすこぶる艶がよく、胸元では大粒のサファイヤが煌めいて、男の自尊心の高さを代弁していた。
「流石、ホテルハドソンだ」
「ええ、気に入りましたわ」
その昼間の騒動にすこしばかり首を突っ込んだことなどおくびにも出さず、アドラは微笑んだ。
「貴女と同席出来て光栄ですよ、アネモネ嬢! あいつからこのホテルを利用するのは聞いていましたが、お会いできるとは思っていなかったので」
男はアドラの雇用主の知り合いだった。何度かパーティーで顔を合わせたことがある。フロントで荷物を引き取って帰ろうとしたアドラは、この男に引き留められ、ディナーの席に着いたのだった。
契約相手がいる間は他の異性と親密にみられる行為を避けているのだが、男はしつこく強引で、雇用主の知人であるだけに扱いが難しかった。
ホテルハドソンのディナーが魅力的であったのは言うまでもない。
「レストランに限らず、良いホテルですわ。居心地がよくて、つい長居してしまいましたの」
「レディを一人置いていくとは! あいつも随分偉くなったものです」
「お仕事ですもの、仕方ありませんわ」
あいつ、などとさも親し気に呼んではいるが、実際には同年代の同業他社、平たくいえば商売敵である。その響きに込められているのは親しみではなく嫉妬心と根拠のない侮蔑だ。雇用主の方はさして気にかけていないが、この男が一方的に敵愾心を抱いていることは数度会っただけのアドラもよく知っていた。
何しろ露骨なのだ。このホテルに来たのだって、偶然ではなく端からアドラと雇用主を探しに来たに決まっている。雇用主は自分の予定を不用意に他人へ漏らすたちではないから、誰かに金でも握らせて調べたのだろう。
「仕事、仕事! それも結構! しかし仕事に恋をしても人生は潤いません。恋とは花にこそするものですから!」
演説家ぶった物言いと共に向けられた熱のこもった視線を、アドラはさりげなく俯いてかわした。ナイフで小さく切り分けたロースチキンを口へ運ぶ。ハーブがよく効いていて、シンプルながら味わい深い。
ナプキンで口元を押さえてから、ようやく唇を開いた。
「……花はあるがまま、自らのために咲くものですわ。ひとが恋焦がれても、愛し合うことができるとは思いませんわね」
「さ、さようですかな。花は愛でられるためにあるのでは? 愛されぬ花にどんな幸福があるというのでしょう」
「それは花の決めることですわ」
元雇用主の知り合いと契約することも、ないではない。一応はその可能性も考えて席に着いたものの、アドラは内心で男を次の雇用主にする選択肢をすっぱり捨てた。
愛人として契約を結ぶ男には条件がある。アドラは男たちから一方的に品定めされる女ではない。アドラの方でも、男を選ぶのだ。
潤沢な資産があること、礼儀と知性があること、高級娼婦であるアドラに対し本音はどうあれ表面上は対等に振舞えること。扱いが杜撰でも駄目だし、妙に入れこまれてもいけない。お互いが合意の上で愛人関係を楽しめる男でなければ、アドラは選ばない。
この浅はかな男の手を取っては、アドラの価値に傷がつく。
「……いやぁ、それにしても美味い。これは是非、朝食も味わってみたいものだ」
誤魔化すようにワインをがぶ飲みし、さらにあからさまなセリフを吐く男にアドラは呆れた。この流れでどうしてアドラが一夜を共にすると思えるのだろう。
綺麗な姿勢を保ったまま素知らぬふりでカトラリーを動かせば、男はもう何も言えないようだった。
「まぁ、なにごとですの?」
滑稽な空気の中ディナーを終えた二人がレストランを出ると、エントランスには人だかりができていた。身なりの良い紳士淑女たちが、なりふり構わぬ様子で出入口の前に立つ従業員へ食って掛かっている。
「ふざけるな! 外へ出せ!」
「私は貴族だぞ! わかっているのか!」
大変な騒ぎだ。どうも、荒ぶる人の流れはラウンジの方角から来ているようである。
「なんだこれは! 外に出られないのか?」
アドラの横で、男が苛立たしく声を上げる。
その短慮な様子よりも、アドラはエントランスに詰めかける人々のうちの幾人かがその衣服を赤く染めていることの方が気にかかった。
扇を握る手に力がこもる。何かが起きている。何か、恐ろしいことが。
平謝りしながらも扉を開放しない従業員と、半ば狂乱状態の客とが押し問答をして暫く、片眼鏡を付けたひとりの男性が現れた。
「皆様……落ち着いて、聞いてください。これは“緊急事態”です。私より、状況を報告いたします」
支配人、セシル・ハドソンだ。新聞に載せられていた肖像と同じ顔だった。
「……先程ラウンジにて、一〇〇名近い“死者”が出ました。従業員も、既に十数名が死亡しています。おそらく、“緋色の花嫁”という疫病によるものでしょう」
アドラは息をつめた。
緋色の花嫁という病の恐ろしさは、昼間さんざん人と話したばかりだ。これまでの流行はもっぱらイーストエンドであった。ここはロンドンの一等地。何故、急に一〇〇名もの死者が――今、ハドソンは多数の死者がラウンジで出たと言ったか?
「……そして、この場の“全員”に……感染の可能性があります」
支配人による説明の声が、急に遠のいたように感じられた。
ラウンジには、知り合ったばかりの友人がいたはずだ。晩餐会に招待されていると言っていた。乱れた華やかな衣装、血染めの正装。彼らは晩餐会の参加者たちだろう。アドラは視線を走らせ、知った顔を探した。晩餐会で何が起きるのか気になってしょうがないと言っていた少年はどこだ。親しく言葉を交わしてくれた男女は、もうホテルを出ているだろうか? 滞在を伸ばすつもりだと言っていた彼女は?
いない、いない、わからない!
気が付けば、隣にいたはずの男はいなくなっていた。支配人や従業員に詰め寄る人の群れの中にその背を見つけて苦笑が湧く。
「……レディを一人置いていくとはね」
だが、流石にこの惨状では無理もない。
百余名の死者がいつ二百、三百と数を増やしても可笑しくないのだ。ホテルを閉鎖するという英国政府の判断も、恐怖にとらわれる客たちの心境ももっともだった。
アドラは震える呼吸をなだめ、フロントへ足を向けた。部屋をとっていない客には、空き部屋が用意されるらしい。移動する前に、預けてある荷物を引き取らなければ。事態がいつ解消されるかはわからないが、少なくとも今晩の着替えが必要だろう。
「探さなくては……」
ラウンジにこそ近寄っていないが、アドラ自身とていつ発症しても可笑しくはない。そう考えるとあまり身動きは取れないが、このホテルで声を交わした彼らが、彼女たちが、無事である姿をどうしても見たかった。
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