ホテルハドソン殺人事件13

ツイッター交流企画『ホテルハドソン殺人事件』参加作品です。

アドラ・アルムニアが私のキャラで、話によりNPC或いは他の参加者様のキャラクターをお借りしています。セリフの一部は公式による提供、または他の参加者様とのキャラロールでのやりとりでいただいたものになります。


第一章【アンドレの証言】【遺体の状態】【検死記録】

「なにかお困りですか」

 本来の待ち合わせ場所からあまり離れるべきではないだろうと、エントランス近辺を行ったり来たりしていたアドラに声をかけてきたのは、同年代と思わしき青年だった。

「いえ、……」

 アドラは曖昧に応じながら、相手をそれとなく観察する。

 蝶ネクタイは黒いベストの胸ポケットに収まり、胸元まで大きく明いたシャツの袷から鎖骨が露わになっている。だらしなく映っても可笑しくないのに、そう見えないのはどこか愛嬌のある雰囲気のせいだろうか。襟元をゆるい癖のある金髪が滑り落ちる。アドラを見つめる双眸は、ヘブンリーブルー。遠浅の海のように穏やかで、友好的な色合いをしていた。

 そのすぐ背後に、男がもう一人。声をかけてきた青年よりもいくらか年上に見える。ランプブラックの癖毛に、血色の悪い肌。いかにも気難しげな顔をして、アドラを一瞥したきり口を開く様子もない。丸いレンズの奥の目が暗く落ち窪んでいるのは、この異常事態に憔悴しているというよりも、日ごろの不摂生の表れであるように思われた。

 不思議な組み合わせの二人組だが、いやな感じはしない。密かに胸を撫でおろし、ほのかな笑みを浮かべる。

「人を探しておりますの。ここにいれば会えるとは思うのですけれど……地下での事件のことがありますでしょう? どうにも落ち着かなくて」

 広げた扇で気恥ずかしげに顔半分を隠す。

「捜査はもう始まっているようですよ」

「ええ……ですけれど、事件現場をご覧になった方のお話では不可思議な点がいくつかあったとか」

 おや、と青年は朗らかな声を上げた。俄かには説明のつかない不審な事柄について、彼はアドラとは違った見解を持っているらしい。

「不可思議な点があるということは、そこに隠された何かが顔を出しているということですよ。僕も事件現場で従業員から話を聞いたところ、気になる点があったのでね。お話しましょう。心配なさらずとも、紡ぎ合わせれば真実は自ずと見えてくるものですよ」

 謎は不安要素ではなく、解決に向けての何よりの手掛かりであると述べる青年に、アドラは目を上げた。

「僕が酒場で聞いたのは従業員、アンドレくんの話でしてね」

「特徴的なマスクをつけたお方ですわね、わたくしも昼間お会いしましたわ」

「ええ、その彼です。彼は『会員証』のカクニン係くんだったのだが、亡くなったマイセン・クログレイは1回酒場を訪れ、1回出て行ったらしいのです。いつの出来事だったかははっきりしないらしいが、出て行った彼が何故酒場で亡くなっていたのか、おかしな話でしょう。屈強な誰かが彼を運び入れたのかな?」

「あの男が真実を語っているとは限らんがな」

 首を傾げた青年に、背後の男が付け加える。

「まぁ、手品のようなお話ですわね」

 人が亡くなっているというのに不謹慎ではあるが、そう思わざるを得ない。

 被害者は酒場を訪れ、そして出て行った。ならば、一体いつどうして|彼《か》の死者は酒場に現れたのか。

「どこか別の場所で亡くなられたのかしら……それにしても、人目につかないところに隠すならともかく、わざわざバーのカウンター席に座らせるなんて奇妙ですこと」

 青年もまた事件に少なからず関心があるようだったので、アドラは自身が持つ情報を打ち明けることにした。真実への手掛かりを紡ぎ合わせるためにも、多くの人間が情報を共有し思索することは有用なはずだ。

「せっかくですから、わたくしが伺った不可思議な点についてもお話いたしますわ。実際にわたくしが目にしたわけではありませんけれど」

 記憶違いがあってもご容赦くださいましね、と前置きしたアドラに、青年は気安く頷く。

「勿論、構いませんとも。貴方の記憶にあるまま話して頂ければ嬉しいですね」

「そう仰っていただけると、助かりますわ」

 ひとつ微笑み、アドラは聞いた話を思い返しながら語り始めた。

「マイセンさんは、バーに入ってすぐのカウンター席でお亡くなりになられていたそうですわ。テーブルへ顔を伏せるように倒れていらして……背中の中央あたりに刺し傷が二ヶ所。体全体がほんのり濡れていたそうですわ」

 想像するだに痛ましい。そしてやはり何度考えても不可解だ。

「奇妙なことはもうひとつありますの。マイセンさんは、ダイイングメッセージ、と言うのかしら? テーブルに文字を書き残しておいでだったそうですわ。赤い字で、“JESSICA”……ただし、二つのSは鏡文字になっていたとか……」

「鏡文字ですか」

「ええ。不思議でしょう? 傍らにワイングラスも倒れていて……そういえばフレドリック様――この話をわたくしに教えてくださった方ですけれど、その方が言うには、マイセンさんの左手の人差し指が赤く汚れていたそうで……きっと、左利きでいらしたのね」

 現場を目の当たりにしたフレドリックが観察し、推測していたことは他にもあった。

「グラスからこぼれた赤ワインは手の下にあって手の甲は汚れていなかったので、グラスの方が先に倒れたに違いない、と推測なさっておいででしたわ」

「なるほど、そのフレドリック氏は鋭いお方だ! ダイイングメッセージはワインによって残されたものだったのかな。しかし、彼の体がほんのり濡れていたのなら、ワインはよく一緒に流れなかったものだな」

「赤い文字が赤ワインによるものだったのか、血で書かれたものなのかは伺っておりませんわ。フレドリック様もすぐに刑事さんに追い出されてしまったそうですから……刑事さんが“決定的な証拠”があると仰っていたそうですけれど……もしこのメッセージのことだとしたら鏡文字についてどのようにお考えなのか、気になりますわね」

「二ヶ所も刺された人間が鏡文字にダイイングメッセージを残すとは、確かに奇妙な話ですね」

 頷いた青年は、続けて思いがけないことを言った。

「誰かの思惑によって書き変えられているのも、何か都合が悪かったんだろうか」

「まぁ、書き換えられていたんですの?」

 鏡文字になっていたSが、いつの間にか裏返って正しい形になっていたことを聞き、アドラは驚いた。初めからそうであったなら何の問題もないが、途中で書き換えられたとあってはそうもいかない。

「手が加えられたのなら『決定的な証拠』として成り立たない可能性もあるわけだ、あの刑事くんはまだご存知なかったのかもしれませんね」

 アドラは思わず溜息を吐いた。

 ダイイングメッセージは何故Sが鏡文字だったのか。そして誰がいつ、どんな思惑で書き換えたのか。そもそも、酒場を出て行ったきりのはずのマイセンが何故バーで発見されたのか――。

「……わたくしではそうそう真相にたどり着けそうにありませんわ。刑事さんと探偵の方が揃っておりますから、杞憂かもしれませんけれど」

 各々事件に思いを巡らせ、沈黙が落ちた。

 一層気が塞ぎそうになったタイミングで、はっと青年が顔を上げた。明るい笑みを浮かべ、会釈する。

「そういえば、自己紹介がまだでしたね、僕はロデリック・デリンジャー、作家をしています。まあ、あまり売れていませんが!」

 屈託のない物言いが何とも清々しい。続けて、背後の男を手で示す。

「こちらは友人のギルバート・ダニエル、学者らしく偏屈なやつですからお気を悪くされないでくれるとありがたい」

 青年――ロデリックとその後ろのギルバートへ、アドラは会釈を返した。

「気を悪くするなんて、とんでもありませんわ。お声をかけて頂き、感謝いたします」

「こちらこそ、とても分かりやすいお話をありがとう。貴方は大変聡明なお方だな、と思いましたよ。このホテルを安全に出られたその時には、是非とも僕の作品にも感想を付けてもらいたいものだ。ええと、レディ……?」

「アドラ・アルムニアと申しますわ。気兼ねなく、アドラと呼んでくださいませ」

 本来レディなどと丁重に呼び掛けられるような身分ではないが、余計なことは言わず、名を明かす。

「お二方とも、知性と閃きで世界を照らすお仕事をしていらっしゃいますのね」

 作家はその創造性によって、学者は知識によって。想像と現実という違いはあれど、人が認識する世界を広げるという点では同じだろう。

 目の前の青年がどんな物語を紡ぎ出すのか、アドラは世辞抜きに興味を持った。

「こんな状況でなければ、すぐにでも貸本屋へ伺うところですけれど……ホテルを出た後の楽しみにとっておくことにしますわ」

 立ちふさがる問題は事件だけではない。疫病という目に見えない問題は、殺人以上に厄介かもしれなかった。だが、明朗なロデリックとの束の間の会話は、アドラの心を軽くした。おかげで、躊躇いなく未来の話もできる。

 どのみち、アドラにできることはそう無いのだ。見通しの立たないこの先を無暗に不安がるより、一つでも二つでも楽しい約束を抱える方がよほど良い。

「お陰様で、いくらか気が楽になったように思いますわ」

「君の憂いが少しでも晴れたならよかった」

 すっと片手を取られ、手の甲へふりだけの口付けを贈られる。嫌みのない、ごく自然な振る舞いだった。つくづく人の気分を明るくするのに長けた青年だと、感心する。

「この問題が片付いて、君の晴れた笑顔が見れたらもっと良かったんだが、……ともかく、次に会う時も君の無事な姿が見られるよう祈っているよ!」

「お二方も、どうぞご健勝でいらしてくださいませ」

「また会おう、レディ・アドラ!」

 ギルバートと連れ立ち、大きく手を振ったロデリックを、アドラはひととき憂いを払った微笑みで見送った。