ホテルハドソン殺人事件12

ツイッター交流企画『ホテルハドソン殺人事件』参加作品です。

アドラ・アルムニアが私のキャラで、話によりNPC或いは他の参加者様のキャラクターをお借りしています。セリフの一部は公式による提供、または他の参加者様とのキャラロールでのやりとりでいただいたものになります。


第一章【検死記録】【酒場の貼紙】

 こんな状況で、むやみやたらと出歩くものではない。そうわかっていてもじっとしていられないのは、アドラだけではないようである。

 エレベーターを降りてほどなく居合わせたのは、極上のルビーを櫛で梳いたような髪の若き貴婦人だった。アメジストの瞳と同系色のイブニングドレスから伸びる首は白く細く、マイセン磁器のレースドールを思わせる。少しばかり血の気の引いた顔色が、いっそう繊細な美しさを匂わせていた。

 アドラのような紛い物ではない、気品ある面立ちと視線が合って、会釈を交わす。互いに話し相手を望んでいるように思われて、アドラはその側へ歩み寄った。

「地下においででしたの?」

「ええ……なにせ殺人ですもの、やたらと近づくべきではないと分かってはいるのですけれど、どうしても気になってしまって」

 名探偵を自称するハリス・ニコラは、客に情報を集めさせることに何らかの意義を見出しているようだが、アドラに彼の真意はわからない。だから、こうして立ち歩いているのは探偵の言葉故ではなかった。

 本来ならば、部屋に招いてくれたフレドリックの好意に甘え、安全な場所で嵐が通り過ぎるのを待っているべきなのだろう。だが、不可思議なことが次々と起こるこの非日常的な閉鎖空間で、果たして大人しく事態に流されることが最善の選択なのか――わからない以上、何が起きているのか知りたいと思うのは必然だった。そして情報を望むのなら、息を潜めているだけでは駄目なのだ。

「何か興味深いものはあって?」

「いえ、なんだか物々しくて……店の中にはとても入れませんでしたわ。貼紙を見たくらいですわね。バーでの規則がまとめてあるようでしたわ」

「ああ……なんでも、仮面をつけて入るお店なのですってね」

「ええ。貼紙にも書いてありましたわ。“入店には仮面と会員証が必要”……昼間、従業員のアンドレさんという方が、店に入りたければどこかで仮面と会員証を拾ってきてください、なんて仰っていましたわね」

 規則を重んじる割に、拾ってくればそれで良いと言わんばかりの物言いがおかしかった。実際にアドラが廊下で見つけた会員証を持っていけば入ることができるのだろうか。もっとも仮面を見繕ってきたところで、酒場がすぐに営業再開するとは思えないのだが。

「“入店時には、毎回会員証の確認とボディチェックを行う”そうですわ」

「あら、まあ」

 細い指を口元へあて、貴婦人は相槌を打った。

「随分と徹底されていらっしゃるのね」

「ええ。貼紙の最後に、“刃物や銃などの持ち込みは禁止”とありましたわ。ただ、聞いた話では亡くなられた方は背中を刺されていたのだとか……いくら規則を言いつけても、殺人を犯すような不届き者には砂を耕すようなものですわね」

 他人の命を奪おうと考える者が、バーの規則を守るはずがない。アンドレに呼び止められぬために、仮面と会員証は持っていたかもしれないが。

「けれど可笑しなこと。毎回のボディチェックを徹底していたのなら、持ち込んだ刃物にも気が付きそうなものだけれど……」

 貴婦人の疑問に、アドラも頷いた。

「もともと店内に凶器となるような刃物があったのか、それとも巧妙に隠して持ち込んだのか……」

 もしもまだ犯人が凶器を持っているのなら、恐ろしいことだ。同じ考えに至った二人の間に、束の間こわばった沈黙が落ちる。

 ふた呼吸ほどおいて、貴婦人が唇を開いた。

「興味深いお話のお礼に、物々しい現場の渦中を教え致しましょうか」

「まあ、……ご覧になりましたの?」

 危険から遠ざけられて然るべき彼女がそのような光景を目にしたとは、痛ましいことだ。だがアドラの労わりをやんわりと退けるように、話は続けられた。

「従業員さんはテーブルへと突っ伏すようにして亡くなられておられたわ。背中には刺し傷が二つ。それとは別に、何だか全体的に濡れていらっしゃる様子でしたわ」

 フレドリックから聞いた話と一致する。アドラの中で、見てもいない遺体の状況がより鮮明に描かれる。

「少しだけ、と言える範囲の濡れ方でしたけれど……少し気にかかりましたの」

「ええ、……不思議ですわね」

 初めに聞いた時は衝撃の方が強くさして気にも留めなかったが、改めて考えると不審な状況だ。貴婦人の口ぶりからすると、ぐっしょりと滴るほど濡れていたわけではなく、全体がひどく湿っていた程度だろうか。そんな濡れ方をするような出来事に、すぐには思い当たらない。

 ふ、と形の良い唇が小さく息を漏らす。立ち話の上に、人が死んでいる様子を思い出させて疲れさせてしまったのかもしれない。アドラはその場を辞すことにした。

「お話、興味深く伺いましたわ。何かと大変な夜ですもの、どうかご無理なさらず……信頼できる方と一緒にゆっくりお休みくださいましね」

「ええ、……ペットがいますから大丈夫ですわ」

 このホテルは犬猫など動物の持ち込みを禁じているはずだが、この状況においては些細なことである。凄惨な悲劇が立て続けに起こったこの夜に、心安らげる存在があるのはいいことだ。

 ここで初めてほのかに滲んだ貴婦人の笑みに安心を覚え、それでは、とアドラは別れを告げた。